児童虐待から学ぶ

 新聞を見ると、このところ児童虐待に関する記事がやたらと目につく。新聞記事になっていない事件もあるだろうから、その数は計り知れない。大きな社会問題である。
 どうしてそうなってしまうのだろうか。理由はいくつもあろうが、ひとつには誰にでもあてはまる現代社会の状況がある。現代はたくさんの情報が飛び込んでくるので、ついついそれに振り回されてしまう。子育ても同じで、自分の子どもと真向かいになることよりも、そのまわり(情報)を基準にして、子どもを勝手にその枠に当てはめて育てようとする。ところがその通りにならない時にはどう対応したらいいのかわからず、追い込まれていって、ついに育児ノイローゼに陥って虐待にはしってしまうのではないだろうか。つまりマニュアル通りでないと動けないという現代人の悲しさが表現されているように感じてならない。
 能力重視の競争社会のなかで、現代人の多くは、幸せをつかむには能力を身につけて、よい地位につくことだと知らず知らずに思いこみ、そのマニュアルに乗って急き立てられるかのように生きている。そこでは「どう生きるか」とか「自分とは何か」を深く考える時間などない。そんなことを考えていたら競争に遅れてしまうのである。だから自己直面の機会などないといっていい。常にまわりと比較しながら自分が遅れないようにしなくてはならない。こうして自分自身がわからなくなっていくのである。
 自分がわからずして、子育てするとなると、頼るべきは知識や情報である。しかし、生身の子どもは知識だけでわかるものではない。児童虐待は自己直面の乏しい現代社会の象徴的な事件のひとつにすぎない。ちがった形で私たちの上にも起こっている。自分がわからずして、人がわかるはずはない。「自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり」と自己を問い続けた清沢満之の言葉に耳を傾けたい。