門徒随想

 私が真宗と深く関わるようになってからかれこれ十数年になります。それまではお寺へ行くというと、祖父母の法事・お墓参りぐらいで、いわゆる葬式仏教の認識しかありませんでした。しかし、母の病死を縁として「死とは何か」「生とは何か」を深く考えるようになり、真宗の押しえにふれるようになりました。
 ところが、日が経つにつれ、仕事中心の生活に忙殺されるようになり、聞法がおろそかになっていきました。こうして自分の中で真宗の教えが薄れ始めてきた頃、今度は自分が生死にかかわるほどの病気になってしまいました。医者からあと1年ほどの命と言われ、頭が真っ白になりましたが、再び真宗の教えにふれて、死は恐れるものではないという気持ちがもてるようになっていきました。その中で、残された家族(子供2人は小学生)のことを思いつつ、自分が出来ることは何かと考え、西洋医学の治療と併行して、人間の本来持っている自然治癒力を最大限活かす東洋医学の治療を行なっている先生にも就いて気功をはじめました。真宗同様、自分を見つめる訓練がここでも行なわれました。ただ真宗とは拠って立つところはかなり違う気がしました。
 現在病気の方は、まわりの人たちの励ましもあって奇跡的に回復し、社会復帰もできました。妻の努力、家族のいることの有り難さをつくづく思い知らされ、浄土はここにあったのだと、真宗の教えの有り難さを再認識した次第です。
 現在「いのちのふれあいゼミナール」に参加し、親鸞聖人が明らかにされた本願念仏の教えを正しく学び直しています。先日も不浄の我が身ということを改めて考え直されました。年を取ってからではなく、若い人たちほど聞法し、「限りある生」「凡夫である自分」「生かされている自分」等を自覚していくことが何よりも大切だと痛感しています。
篠崎一朗(39歳・会社員)