「推進員養成講座」いのちのふれあいゼミナール
宮戸道雄師・法話実況中継
「仏に遇うということ」
ダイジェスト版

第2回目 4月10日(土) 会場: 蓮光寺

教団とは何だろう

 今回、私も京都教区近江11組の組長になりました。しかし、組とか教区とかいう組織は別にお寺さん組合でも何でもないわけで、教派の組織ということでございますから、私はただひたすらお念仏の教えというものを門徒と住職がどこまで語り合っていけるか、この一点にかかっているのだと思います。教団といいましても、具体的にはお寺と門徒とその地域の人間関係だろうと思うのです。それをぬきにして教団はないのです。そういうことで、ご門徒とお寺がお念仏についてどれだけ話し合っていけるか、そういう場を開いていかねばならないのでしょう。

お寺は自分を習う家

 ちょっと復習をしてみたいと思うのですが、前回お寺は習う家と申しました。習うと言うと、自分が習うというのが常識になっています。自分が習うのですから、技術、知識などを身につけるということでしょう。死ぬまで勉強だ、生涯教育だと、これはすべて自分が習うということでしょう。ところがお寺で習うというのは、自分が習うのではなく、自分を習うのです。自分が習うということはずいぶんやってきましたが、自分自身を習うということは、最も盲点ではないでしょうか。死角になっているのですね。蓮如上人も「人のわろき事はよくよくみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり」(『蓮如上人御一代記聞書』)とおっしゃっておりますが、自分自身を見たことがないのです。自分を習うということはなかなか大変なことです。
 私はむかし校長のOBでつくる会で話をしたことがあります。この会は、年2回勉強会を開いていて、銀行の頭取を呼んできては経済の動向を聞く、政治家を呼んできては政治の動向を聞くといった具合に非常によく勉強をしているのです。そのOB会の会長さんから私は手紙をいただきました。この会は色々勉強を続けているけれども何か残ったものがあるようだと。あれもわかった、これもわかったと言っている自分自身がどうもはっきりしていないので一度話をしてほしいというわけです。こういうご縁であればと思い、私は引き受けたのですが、すぐに講題をお願いしますと言ってきました。そこで私は「残り物の始末」という題にいたしましたらびっくりした様子でした。そして話をいたしましたら、OB会の方々は「こんな話は聞いたことがない。こういう話はどこへ行ったら聞けるでしょうか」と言われ、心に響いてくださったことを今でもおぼえております。お寺は自分を習うところであったんだということですね。
 このいのちのふれあいゼミナールは、自分を習うということを確認してくださったらいいと思います。自分を習うということは、自分を発見していくことなのです。毎日毎日、新しい自分に遇っていくことなのです。新鮮な自分の発見なのです。そろそろうちの寺の庭にも、柿が芽をだしはじめました。邪魔になるから柿の木を少し切っておいたのですが、しばらくしてもう枯れているだろうと見てみたら、ハッとするほどの若々しい芽が柿のかぶから出ているのです。古かぶで、もうくさったような柿のかぶから、赤ん坊のような若々しい芽が出ているのです。感動します。私たちはどれだけ年をとっていても、老木のようになっていても、そこから毎日毎日新しい自分というものが芽生えてくる、新しい自分に遇っていく、そういうことをたまわるのです。たとえどんなに年をとっていても、自分を習うことによって毎日新しい自分に遇っていくという、こんなにすばらしいことがあるではありませんか。
 自分を習うということで、「いつ、どこで、どういう状況のなかで、不浄の身をもつ私であったと気づかせていただいたのか、具体的に記録してください」という宿題をだしておきました。その宿題というものによって自分の生きかたについて少しは吟味してくださった2か月間だったのではないかと思っております。

苦を引きつける
根源的な愚かさをもっている身

 私は以前、本山の研修道場におりました。そこには全国から若い僧侶がお手伝いに来てくださいます。私も沢山の若い僧侶と知り合いました。そのなかで、こういう若者がおりました。彼の自坊のご住職がなかなか彼の結婚を認めてくれないので、相手の女性と駆け落ちをしてしまいましてね。ずいぶん悩んでおりました。私は、そのことでなんと5年間も彼の寺に通い、結婚を認めてくださるようお願いし続けました。今はもちろんいっしょになって、お嫁さんも立派な坊守さんになられています。先日、本山に行ったらその彼がおりました。私と大学の先生と研修部長と3人で話をしているところへ彼がお茶をもってきたのです。私と大学の先生がお客さんですから、彼がお抹茶を2杯もってきたのです。私は部長さんに「おさきにどうぞ」とすすめました。ところが、後でもう一杯持ってくるだろうと思ったら、ついに持ってこなかったのです。用が済み帰ろうとした時、私は無性に腹が立ってきたのです。「これだけ5年間も彼のために骨身を削って世話をしてやったのに、お茶一杯よこさんとは何事だ」と。お茶一杯よこさなかったことが、彼との5年間というものを全て腹立つものに変えてしまっているのです。なんたることでしょうか。ずいぶん前のことを今におよんで引っぱって、いつまで御礼を言わせたいのでしょうか。不浄な身ですね。不浄とはけがれているということではないのです。いつまでたっても「これだけしてやったのに、あれだけしてやったのに」というように自分のやったことに固執しているものですから、縁がくるというと、やったこと全部が私を焼き殺すものとなるのです。根源的愚かさです。どうですか皆さん、不浄な身に気がつきましたということは、こういう私の生きかたをよくよく見ると愚かとしか言いようのないということでございましょう。腹を立てさせているのは彼ではなく、それは縁にすぎず、実は腹立つたねは私自身がもっていたのだということに一ぺん気がつかないと、私の人生というものはどこまでいっても苦をつくりだすものでございましょう。苦しみというものを自ら引きつけておるのです。苦を引きつけるような磁石をもった私がいるのだということです。蓬次祖運[ほうしそうん]という先生は、「苦しみが外から来ると思っている間は、苦しみはなくならない」とおっしゃっています。あいつが私を苦しめているという考えかたに立っている以上は、人間から苦というものはなくならないのです。
 「転悪成徳」(悪を転じて徳となす)という言葉がございます。真宗をちょっとかじった人は、これがお念仏のおたすけだと言います。例えば、病気したということが縁となってお念仏が明らかになると、つまり病気したことがよかったと、それが徳に転じていったのだと、こう言うわけです。ところが、それはお説教の世界の話であって、事実はそうなっておりません。私たちのあり方は「転徳成悪」(徳を転じて悪となす)なのです。よい事をつんだと思っていることを全部悪に変えてしまっておるのです。私がそうでしょう。5年間一生懸命世話したという徳が、お茶がこなかったというだけですべて悪に変えてしまっているのです。こういう自分がいるのだということに気づくことです。こういう自分がいるのだということに気づくことです。こういうことを「自分を学ぶ」というのです。

世八法にがんじがらめになっている私

 これから自分を仏さまの鏡に照らして掘りさげていきたいと思うのですが、曽我量深先生は「現代は末法である。自我の存立というものに基礎を有せないものはことごとく否定されてしまう時代になった」とおっしゃっています。これをやさしい言葉で言ったら、自分にとって間に合うか間に合わないか(都合がいいか悪いか)という意識でしか人と関われないということです。一般公募している川柳のなかに「老人は 死んでください 家のため」というのがございました。その次の解説に「おかあちゃん、ぼくも中学生になったのだからぼくの部屋がほしいわい」と息子が言ったら、おかあちゃんは「もうちょっと待っていなさい。わかるでしょ? ね」と答えていることが書かれておりました。えらいことになりましたねえ。戦後五十数年、豊かになりたい、便利になりたい、長生きをしたいと思っていたものがやっと手にはいったかもしれません。しかし、これが便利で豊かになったこの世の中の真相でございます。
 このことを考えていく上で、先日、岐阜県の32歳の奥さんからいただいたお手紙にちょっとふれてみたいと思います。この奥さんは医者から母親が癌を告知されました。この奥さんは一人娘で嫁いでしまったのですが、実家にはほとんど視力を失った65歳の父親と91歳になる寝たきりのおじいさんがいらっしゃいます。母親が入院したら、自分が看病するものの、実家のこの二人のこと、そして夫、子ども、仕事と、いったいどうなるのだろうか、どうしようということでした。そして、このあとのこの奥さんの言葉に着眼しなければならないのですが、もし癌になったのが母親ではなく、実家にいる二人のどちらかだったら、奥さんのどうしようは、母親が癌である時のどうしようとは明らかにちがっていたと、つまり、実家の生活を支えてきたのは母親であったと実感せざるをえない、重い重いどうしようですと言うのです。私はこれを読んで思ったことですが、それは先日『サンガ』紙に書いたとおり、世八法だということですね。
 『教行信証』信巻に、『涅槃経』を引用した「世の八法をもって汚さざるところなるがゆえに、涅槃に入らず」という言葉がございます。世の八法とは世間の8つの法則ということですね。この世の中で私たちが行為をするということは何もメチャクチャをやっているのではなく、8つの法則によって行っているということなのです。8つとは、全部あげませんが、手近なところで言えば、損・得・苦・楽ということです。金太郎飴みたいなものです。金太郎飴というのはどこを折っても金太郎が出てくるでしょ。人間の行為はどこをとってみても損か得か苦か楽かですよ。ひどいものですね。人のことではありません。私自身がそうでありましょう。だから法話をするというのは、仏さまによって照らしだされた私を申し上げているのです。これが法話だと思うのです。説教する人はいくらでもおるでしょうが、仏法が本当に伝わっていくということは、ひとりひとりが仏さまによって照らしだされた我が身の姿を告白する以外にないのではないかと思います。
 私にも96歳にまで生きた母親がおります。呆れてしまいましてね。亡くなる3年くらい前から息子である私がわからなかったのであります。私を指して「このおっさんどこの人や」と言うのです。腹立ったりもしましたけれど、悲しくもなりましたね。そして、こうならんと死ねんのかいなとか、もうお世話するのもいいかげん疲れてきたなとか、色々な気持ちが浮かび上がってきました。そのくせ、私にはフィリピンで戦死している兄貴がおりましたから、寝たきりの母親は、毎年沢山のお金がいただけるのです。そういう時は長生きしてもらいたいという気持ちになんとなくなったりもするのです。親といえでも何という根性が私のなかに出てくるのだろうかと思います。損か得か苦か楽かですね。これにがんじがらめになってしまっているのです。こういうことを仏さまによって照らしていただくのではないでしょうか。人間はみなこうなっているのではないですか。人間のような顔をしておりますが、結局間に合うか間に合わないかでしょう。それの存在を認める認めないは、自分にとって間に合うかどうかそれだけしかないのです。これがどうして人間の住む場所といえるのでしょうか。

お経とは
自分自身を習ってこられた先輩の足跡

 お寺というところは「自分を習うところ」だと申しました。それは、自分自身を習ってこられた先輩の足跡をたずねていくことです。先輩の足跡をたどることによって、そこに自分というものが習われてくるのです。その先輩の足跡をお経というのでございます。お経というと、法事の時にあげるものというようになっています。法事といえば、このごろ私の田舎の方でもね、門徒さんのなかには「ご住職さん、座り慣れないものが多いものですから、どうぞお経は短めにちょろっとお願いしますわ。まあお経をあげていただくのも先祖のごちそうですから」と言われる方がおるんですがね。自分たちはお斎だといって料理屋でごちそうを食べていて、先祖にはお経がごちそうだなんてどういうことでしょうか。お経は先祖のごちそうといいながら自分たちは食べたことがないのです。いいかげんなものですね。先祖にお供えするごちそうがお経なのでしょうか?
 先祖からこちらにいただいているごちそうがお経というものではないのでしょうか。目を覚ませということを私たちに教えてくださる本当の意味のごちそうじゃないですか。こっちが先祖にあげるごちそうではありません。

お経は自分を映しだす鏡

 善導大師は、お経というものは自分を映す鏡であるとおっしゃっています。これから『現代の聖典』をテキストに使っていきますが、内容は二千数百年も前のお釈迦さまの説法なのです。これがなぜ『現代の聖典』なのか疑問に思われるかも知れません。しかし、これを『現代の聖典』にするかしないかは、ひとりひとりの姿勢なのです。これによって私自身がどこまで照らされるか、そういうところに『現代の聖典』を読んでいく視点というものがあるのです。
 一番最初に『仏説観無量寿経』[ぶっせつかんむりょうじゅきょう]と書いてございます。これがお経の題でございます。親鸞聖人はこの題をそのままお読みにならないのです。「仏説無量寿仏観経」[ぶっせつむりょうじゅぶつかんぎょう]と読まれるのです。「観無量寿経」だと「私が無量寿仏を観るお経」ということになりますが「無量寿仏観経」となりますと「無量寿仏によって私が観られるお経」という意味になるのです。これは今日、私が申し上げてきたことを親鸞聖人はこういう形でおっしゃっているということなのです。自分自身はどこまでも不浄の身である。苦しみは外にあるのではなく、自分自身が苦しみを引きつけていたということ。自我の心がつくっていたのだったということは、仏さまに照らされてはじめてわかるのです。自分ではわかるものではありません。自分で自分を見ようとすると暗くなります。仏さまによって、今まで盲点であった自分というものがはじめて照らされるのです。そういうお経であるから「仏説無量寿仏観経」と読んでおられるのです。また、京都大学の哲学の先生であった西田幾多郎師は晩年に、「如来(仏)さまというものは、どんなときでも主語でなければならない」とおっしゃっています。阿弥陀仏(無量寿仏)が主語でなければならない。私が阿弥陀仏を観るといったら私が主語になってしまう。阿弥陀仏が私を観るのです。私が観られるのです。このことが、これからこの経典を学んでいく上で一番大事な視点です。そうすると、お経というものはけっしてご先祖さまのごちそうにしてもらうという話ではないのです。お経によって、自分がはっきりさせていただくのだということをいっしょに学んでいこうと思うわけでございます。