脳死臓器移植を考える

 臓器移植法に基づく移植がついに実施された。報道などを見ていると、ほとんどが、その移植をめでたいこととして歓迎しているが、本当にそうであろうか?
 一人の尊いいのちをもった人間が亡くなっていくそばで、めでたいこととして歓迎し、さらに今後、脳死を期待して、その人が亡くなるのを待っている状況が続いていくのである。それがはたして喜ぶべきことなのであろうか。恐ろしい状況である。いのちが完全にモノ化されてしまっている。
 では、もし自分が移植を待つ患者の家族としたらそんなことが言えるのか、やはり脳死を期待しないのかという反論があるかも知れない。確かに人間はその立場によってはどう考えるかわからない愚かさをもっている。親鸞聖人も「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄)とおっしゃっている。しかし親鸞聖人は、そういう人間存在を肯定したのではなく、悲しみと痛みをもって語られたのである。そういう人間のあり方が問われることなくして、役に立つか立たないかという尺度だけで、いのちの問題を語ることに大きな危険を感じるのである。第一、脳死が本当に死かどうかも実はあやしいのではないだろうか。
 人間のあくなき欲望がついに人のいのちにまで踏み込んできた。いのちを本当に操作できるのであろうか。脳死臓器移植を問う以前に、人間自身そのものが問われている。