「推進員養成講座」いのちのふれあいゼミナール
宮戸道雄師・法話実況中継
「仏に遇うということ」
ダイジェスト版

 門徒倶楽部では、現在『歎異抄』の学習を中断し、宮戸道雄先生著作の『仏に遇うということ』をテキストに学んでいます。というのは、蓮光寺が所属する真宗大谷派東京教区東京2組の「推進員養成講座」いのちのふれあいゼミナールに宮戸先生(京都教区 / 滋賀県・慶照寺住職)を講師にお招きしており、門徒倶楽部の大多数がこの講座に参加しているからです。法話のテーマは、先生の本と同じ「仏に遇うということ」となっています。「仏に遇う」といっても、どこかに仏がいて遇うとか遇わないとかいう話ではなく、「自分に遇う」ということにほかなりません。門徒倶楽部では、今年一年、宮戸先生漬けになって聞法にはげんでまいりたいと思っております。そこでしばらくの間、「『歎異抄』に学ぶ」のコーナーはお休みさせていただいて、今号より推進員養成講座での宮戸先生のご法話をダイジェスト版で掲載いたします。講座に参加されない方も、これを読んで仏法にふれていただければありがたく思います。

第1回「推進員養成講座」いのちのふれあいゼミナール
2月6日(土) 法話会場: 源隆寺

仏法は感じるもの

 このお寺にはじめてよせていただきましたが、玄関を入って、何かピーンとした、何か盛り上がるような、そうかといって暖かいような、何か体にジーンとくる空気を感じました。仏法は感じるものでしょうね。「身土不二」というお言葉があります。ひとりお念仏を聞くという姿勢ができるとその人の生活というものがピリッと緊張感をもってくるのです。こういうことを仏法というのです。どこかに極楽があるとかそんなものではないのです。今日ここにきてそんなことをまず感じさせていただきました。

お念仏の風邪をひきましょう

 同朋大学の池田勇諦先生が言っておられましたが、東京の料理やの女将さんからおもしろい歌を聞かされたそうです。「お寺とどてらはよく似たものよ。冷たくならねば用はない」と。うまいこと言うなあと思いますが、お寺は本来生きている間に来るところです。私はそれを聞いて、何かそのままではおもしろくないから「お寺とどてらはよく似たものよ。いっぺんきたらやめられない」と言いかえてみたのです。どてらというのはいっぺんきたらやめられません。お寺へきて、お話を聞いたらやめられない。これを推進員(聞法者)というのです。推進員というのはお寺のお手伝いをするとか、本山の手伝いをするとかそんなことではないのです。ただお念仏の風邪をひいてもらったらいいのです。インフルエンザがはやっておりますが、あれはうつるものですね。自分がお念仏の風邪をひかないで人にうつそうなんて道理からいってもおかしなことです。そういう意味で、この「いのちのふれあいゼミナール」でひとりひとりが、お念仏の風邪をひいてもらう、そういうことだと私は思っております。

仏教とは
仏陀から教育を受ける生徒になるということ

 お盆やお彼岸にお墓参りをして、葬式には住職に来てもらうというのが仏教徒だといいますが、それだけでは内実がございません。仏教徒という内実は何かというと、お釈迦さまから教育を受ける生徒になるということです。門徒というのは親鸞一門の生徒になるということでしょう。仏教徒とか門徒といっても、この教育を受けることが欠落してしまっています。これが大きな問題です。教育を受けずにわかったことになってしまいます。だから教えが生活に何の関係もなくなってしまっているのです。皆さんはいかがでしょうか? 生徒になるということは入門するということです。育てられるということなのです。

お寺は習う家
本当の自分に遇うところ

 親鸞聖人のご和讃に、お寺のことを述べたものがございます。「七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり」というご和讃です。親鸞聖人は講堂道場(お寺のこと)という言葉に「ナラウイエ」という注釈をつけられています。何を習うのか、自分なのですよ。人間で一番の盲点は自分なのです。世の中は本当のことを教えてくれませんね。この世の中はうそとおべんちゃらのキャッチボールです。そうですねえ、うそ言われて喜んで、本当のこと言われて腹立てているのですね。うそとおべんちゃらを言ってくれる人を友だちと思い、本当のことを言ってくれる人を敵だと思っているのですね。これでは育ちませんね。一生の間、うそとおべんちゃらに囲まれて、一度も自分に遇わずして終わるのでしょうか。考えてみてください。裸の王様というのはどこの国の話かと思っていたら、この東京にも沢山いるのではないですか。だからこそ、お寺とお内仏様(仏壇)の前だけは、本当のことを言っていただく場所にしておかなかったら、育たないでしょう。お寺は自分を習うところです。
 私の寺の門徒さんに大会社の社長さんがいらっしゃるのですが、私の貧乏寺をとてもうらやましがるのです。その方は「私のところにも一日何十人もの人が来るが、私についている肩書きやらお金やらを目当てにして来ているのであって、丸裸の私のところには誰も来やしない。だから何も財産もないこの貧乏寺に沢山の人が集まって楽しそうに話していることがうらやましいのです」と言うのです。そう、お寺は丸裸の本当の自分に遇うところなのです。

人間(私)はどこまでも「不浄の性」

 親鸞聖人は「海の性」ということを『教行信証』にひかれています。海というのは、川からどんなに汚い水が流れてきても、海の中に入れば美しい水に変えるというのです。差別しないでね。それに対して、人間というものは「不浄の性」といいましてね、長生きはいいけど寝たきりは嫌だという具合に差別しておるのです。寝たきりは引き受けられないのです。海は差別をせず、どんなものでもきれいにするのに対して、私たちはどんなに美しいものをもたせても、「不浄の性」ですから、全部汚いものにしてしまいます。
 例えばですね、私の寺には、戦争でもっていかれて以来、長年梵鐘がなかったのですが、先程の大会社の社長さんが寄付してくれることになったのです。となりの寺には鐘があったものですから、これでとなりの寺にも負けないと思って私は大変喜びました。でも嬉しかったのは、三日ほどでしたね。なぜかと言いますと、鐘をつかねばならないのです。朝5時にですよ。10分でも遅れれば、お寺が朝寝坊したことを村中に宣伝するようなものです。このあいだも総代が来て、「このごろ鐘が鳴りませんなあ」と言うので「風邪ひいてつかなかったんだ」と言いましたら、「あれが鳴るとやっぱりいいわあ、念仏が出て」と言うので「あんたは寝床で聞いているからよいのや。だったらあんたも総代として、鐘をついた1時間後に朝のお勤めがあるからお参りに来なさい」と言ったら、もう鐘をついてくれと言わなくなりました。いいですかみなさん、梵鐘というのは環境と考えてください。梵鐘がないと、となりの寺に負けたと思うのです。では、梵鐘をいただいて立派な環境をいただいたからもうこれでよいのかというとそうはならないのです。今度はそれを私の不浄の身によって受けとるものですから、私を苦しめ悩ますものにしてしまうのです。ないならないで苦のたね、あったらあったで苦のたねです。問題は外なる梵鐘(環境)にあるのではなく、内なる不浄の心にあるわけです。私たちは徳を転じて悪となしておるのです。こういう自分がおるということを吟味したことありますかね? ないのではないですか。なぜこんな苦ばかりを受けるのかと、あいつが悪いから、環境が悪いから、時代が悪いからと言っているのではないでしょうか。そう言っている自分というものをいっぺん吟味したことがあるかということですね。盲点ですね。曽我量深先生が「下駄をはいて下駄が汚れるのは、おまえの足の裏が汚れておるのだ。自分の足の裏が汚れていることに気がつかないと一生下駄をふくことしかないぞ」とおっしゃられているのは、まさにこのことではございませんか。
 「お寺は習う家」と申しました。この一点を一度習ってみてくださいませ。どんなものがきても苦のたねにしてしまう私であっても、何がきても私を生かしていく栄養にして、私を育てていく薬に転じかえていくような智慧というものがあったら、どれだけすばらしいことでしょうか。こういうものほしいと思いませんか? 自分を習うと言いますが、まず自分は「不浄の性」をもっていて、自分が苦のたねをつくっているということにいっぺん気がついたところからね、そこから開かれてくる世界というものがございましょう。

仏法は生活の中にしみこんでいる

 それでひとつ皆さんに宿題を出したいのですね。いつ、どこで、どういう状況の中で、私は不浄の身しかもっていない私であったということに本当にうなずかせていただいたのかについて、具体的に記録してください。いたずらに暮らしていた生活の中に仏法というものがちゃんとそこにしみこんでくるようになっておるわけでございます。仏法はこういうところにあったのかということがわかるはずでございます。それは自分の生活を、自分のいのちを大事にするということなのでございます。今回はここまでにしておきます。