『歎異抄』に学ぶ

第13回 『歎異抄』第11章(2)
つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。
(第11章抜粋)
(現代語訳)
 さて次に、みずからの思慮分別によって自分勝手に念仏を解釈して、善悪のふたつについて、救いのたしになるとか、さわりになるとか、あれこれ分別して考えるのは、思慮分別を超えた弥陀の誓願そのものをよりどころとせずに、自分の心で救いのために行にはげみ、もともと念仏は本願のはたらきであるのに、その称える念仏をも自力の行としてしまうのである。
 この人は、弥陀の誓願(本願)を疑って念仏するのであるから、これはまた思慮分別を超えた名号のはたらきも疑っているのである。このように勝手に解釈すると、念仏しても喜べない辺地・懈慢・疑城・胎宮という方便の世界にとどまってしまう。つまり、大切な事を忘れ、どうでもよいことに奔走したり、教えを聞いてもいつも焦点がぼやけていてはっきりわからず、あるいはわかったつもりになって自己満足するしかないのであろう。結局自分の思いに閉じこもってしまうのである。だが、そうなっても、そんな者こそ、明るい生き生きとした人生にめざめさせずにはおかない、という弥陀の誓願によって、ついに思慮分別の思いがけないはたらきによるものであり、しかも、その名号は、弥陀の誓願から生み出されたものであるから、まったくひとつなのである。

思いどおりにしたい心根

 第11章は、本願念仏の教えをいただくうえで、大きくわけてふたつの陥りやすい異義が問題とされていますが、今回は、もうひとつの異義である専修賢善計(せんじゅけんぜんけい)についてお話ししましょう。専修賢善計というのは、自力の心から善人は往生でき、悪人はできないと勝手に思いこんで、念仏を称えて善根功徳を積もうと励むあり方を言います。これのどこがおかしいのかなと思われた方もいるかも知れませんね。なぜならこういう考え方はある意味では常識的であるし、一般的になっているからです。しかし、「〜すれば〜になる」という目的に向かって、必死に善根を積むことは一見まじめそうに見えますが、結局は自分の思い通りにしたいという心根が、宗教をも利用しているにすぎないのではないでしょうか。そういう心根で念仏していても、一向に救われないし、また、そういう心根から一歩もでれないと「南無阿弥陀仏を称えたぐらいで何になる」という疑いから抜け出ることもできないでしょう。

どんな自分でも受け入れられることが救い

 では、本願念仏によって救われるということは具体的にどういうことなのでしょうか。少し前のことですが、青年の聞法会に顔をだす若い女性がとても印象深いことを語ってくれました。その女性は、「普段は忙しさのなかであまり気にはなっていないけれども、本当は孤独感と不安に脅えていて、何か大きな問題があると、その孤独感と不安が私を襲ってくる。その孤独感と不安をなくなればとの思いで、本願念仏の教えを聞いているけれども、一向に孤独感と不安はなくなりませんでした。ところが、あるときどこからともなく私は孤独で不安な女性じゃないかという声が内面からわき上がってきたら、そのことから開放されて積極的に生きられる気持ちになりました。まさに目からうろこです」と明るく語ってくれました。自分の力でなんとかしようとしているうちは、まったく解決できなかったことが、自分の内にある深いいのちの叫びを聞いたら、そこから開放されたということです。孤独と不安をもった自分がいやなはずだったのに、そのことを自然に受け入れたら明るくなったのです。
 この深いいのちのさけびこそ、本願そのものであり、それが名となったものが南無阿弥陀仏ということなのです。念仏する身にさせていただくということは、思いどおりにしたいという心根から一歩も出られず、理想を追いかけ、夢を見ている生き方しかできない自分であるということを身にしみてうなずかせていただくことなのでしょう。どんな自分も捨てないで、素顔のままで生きていけることが本当に生きているということであり、これこそが救いなのではないでしょうか。そのことに気づかせていただくことなくして念仏しているその状況を『歎異抄』では辺地・懈慢・疑城・胎宮という言葉で表わしたのです。だからこそ自分の身を通して聞法することが大切なのです。
 真の宗教は、自分の欲望を満たしてくれるものではなく、そういう自分の弱さを知らしめて、いつも積極的に生きていける智慧と勇気をあたえるものです。人間を酔わせるものではなく、目覚めさせるものが真の宗教です。