願われて生きる

 私たちは何で生きているのでしょうか。親が子どもをつくったからというのは理科の授業では正解かもしれませんが、仏教では他に答えがあるのです。生きているのが願われているからです。お寺でお参りしてお願いするのは私たちではないかと思われるかもしれません。しかし、願われているというところに「今ここに生きる」という深い意味があるように思います。そして「願われている」とは誰に願われているのでしょうか。もちろん色々な人に願われているかもしれませんが、その人が死んでしまえば消えてしまいます。私の父も、視力を失った私を心配して亡くなっていきましたが、人の願う心には限界があるのです。それに対して仏の願いは永遠です。では仏の願いとは何でしょうか。私は視力を失いつつある過程の中で絶望を味わいました。しかし、そんな中『歎異抄』に出遇い、また縁あって真宗の御僧侶に教え導かれました。そこで教えられたことは、「どんなときでも私は私である。だれにもかわってもらうことのできない私を生きる」ということでした。今完全に視力を失ってしまいましたが、「私は私であれ」という仏の願いに生かされて歩まさせていただいております。人間の願いは、それが実現しないと絶望に変わります。しかし、仏の願いは変ることなく、どんな自分であっても自分を生きぬくことを教えてくれます。
 体で感じる瞬間がないと仏法は身につかず、自分の血肉にはなりえません。「聞く」(聞法)とは知識を詰め込むことではなく、常に我が身に照らして、親鸞聖人が、蓮如上人が何を語りかけてくださるのかをはっきりさせていくことだと思います。
(「真夏の法話会」田口弘師法話取意)
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。
(『歎異抄』)